倉田啓明「心中告白の記」

以下は「新小説」大正二年二月号掲載の倉田啓明「心中告白の記」を打ち出したものです。誤植等も含めて原本に従ったつもりではありますが、何分筆耕時の過失もありましょうからその点はご容赦ください。

 

 情死の美は刹那の美にある。

 私はその瞬間の心持を、こよなく美はしいものとして、畏敬したい。

 人は一生に一度は、心中美を力説する時がある。

 人は一生に一度は、死にたい時がある。

 そは必ずしも厭世哲学の影響ではない。

 さうして、人は一生に一度は心中したいと思ふ時がある。若しこれを為し遂げなかつた人は、その適当な対手を見出さなかつたのに外ならぬ。

 芸術家は心中を謳歌する傾向がある。道徳家はこれを非難するのが普通である。然しながら、是等は真の心中の意義を知らないものである。古来、浄瑠璃芝居によつて謳歌せられた心中には、真に美しいものは殆んどない。彼等にして若し義理の羅絆に囚はれなかつたならば、彼等にして若し金に苦しめられなかつたならば、心中なる者は一人もなかつたであらう。

 私はかゝる心中に何等の意義も価値も発見しない。

 真の心中は、心中をもつて美なるものと意識して、心中するにある。心中したいがために心中するにある。美のために死ぬ。これが心中の最も美しいものである。

 心中既に美である。こは道徳的評価を許さない。超道徳的行為である。

私はかゝる心中を畏敬し讃美して止まない。

 嘗て私も美のために心中したいと思つた時があつた。

 私の芸術的気分の高調と、生理的衝動とがかくの如き祈願を起させたのであつた。さうして私はこれを決行しやうとした。

こは私の自叙伝の中で、最も光彩ある部分である。人はその一生を、最も光彩あるものたらしめるのが、唯一の誇りであらねばならぬ。光彩なき人生は、価値なき人生である。尤も不幸なる生涯である。私は彼の自然派作家の好んで描く、じめじめした現実生活を甚だしく厭ふ。

 私の光彩ある人生の一頁は、明治四十年、私の十七歳の時に開かれた。この年は私の過去生涯に於て、最も印象深き様々の事実を遺した。童貞時代がこの年の夏を以て終つたのもその一つであらう。さうして異性に対する思想や、性欲に対する概念が、新に啓かれて来た。

 けれども、私が心中の対手としたのは異性ではなかつた。

「美しくなりたい。」「美しく死にたい。」この思想は女には分つて呉れなかつた。さうして、私と一所に死なうと約束したのは、米山重三と云ふ、私よりは二つ年下の男の子であつた。重三は大阪のある有名な俳優の許へ養子に行つてゐたが、何か訳があつて実家へ戻つてゐた。実家はその頃、浜町にあつた。私がまだ立教中学の二年生から、三年生になる時であつた。

 その時分の日記の一節に――

 三月二十四日  曇

 朝北村与三郎君より樗牛全集第三巻を貸して呉れと云ふ端書が届いた。その葉書に「友は親しむべし。而かも狎るべからず。」と書いてあつた。不図重ちやんの事を考へると僕に対する忠告のやうにも思つたが、北村はそんなことを知つてゐる道理なし。シセロの格言の受売にあらずやと思つた。午後重ちやんに相談すべく、中の橋を渡ると偶然薪屋の前に立つて僕を招いてゐた。今日は馬鹿に蒼い顔をしてゐる。感冒を引いたと云つてゐた。中洲を歩きつゝ話す。「あたひは兄さんがあるんだから死んでも可い。」と云つた。彼れも亦死を恐れざるものなることを知つた。

 かうして、何んでも二三日してからであつたらう。重三と私とは心中することに定めてしまつた。その方法は砒素の粉末を互ひに自分の腹を切つて出した血潮に混じて、それに酒を注いで飲んで、死ぬのであつた。その日はその年の九月の八日に定めて置いた。

 ところが四月の二日になつて、重三は急性脳膜炎のために大学病院の一室で死んだといふ報知が、一両日も経つてから私の許へ来た。私は何もいふことが出来なかつた。余りの意外な変に驚いたのである。

 雨の降る四月三日に寂しい葬列が、日暮里の火葬場へと向つた。

 其顛末の大体を書けば、こんな事に過ぎない。然しこの間には複雑な事情もあつたのである。

 真の心中は美のためにするといふ、言葉は今でも信じて疑はない。然しながら、心中も一種の自殺である。私は爾来心中といふ事よりも、寧ろ自殺といふものを色々と考へる必要が起つて来た。

 心中の美は要するに、その刹那にある。けれども、心中者それ自らが、心中を美なりと信じて、その美を趁はんがために心中した。のでなければ、何ん等賞讃に値しない、愚劣な行為である。

 それ故、世の心中を云々せんとするものは先づ第一に心中者の心持を洞察する必要がある。単に心中を悪となし美となすのみでは、真の心中の意義を没却したものと云つて可い。