外山恒一謁見記

 去る三・一二より一週間、私は九州福岡に遊んだ。といっても単なる遊楽ではない。勉学を修めるという大目的のためである。三・一二より遡ること数日、私は以下のような外山氏の投稿を一瞥した。第一回合宿の開催は聞き及んでいたものの予定が合わずに断念し、聊かならず悔いていた私はこれを見るや忽ち氏に信を送ったのであった。以下はその備忘録である。

 

下に提示するように先人のメモがあるので客観的参考の要素は余り意図せず、あくまでも私的備忘録を第一の旨として記す。この文を書く目的は三に大別する。一に私の備忘の用である。同会への参加を望んでいた私の友人のような諸彦の参考というのも、副次的ながら第二目的になる。第三は甚だ卑俗に過ぎるが、半年以上も放置していたブログの更新である。このブログは主に芸術就中文芸を取り扱うが、海内に冠たる政治系前衛芸術家との会見記なのだからさして問題ではあるまい。また、今後復刻作業での酷使が予想されるタイピング能力のリハビリにもなろう。

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三月十一日、前日に教養強化合宿参加のメールを送った私は返信も待たず車中の人となり、列車で西行した。平素海に馴染みの薄い私は太平洋を見るだけで感慨浅からぬものがあったが、往路で強く印象されているのはとある老人である。向かい合わせの席に座したのち、延々一時間近くも競馬について語ることを止めなかった。競馬先生長年の経験で体得した真理は「最初の二十年はどうしても負ける」だそうだ。

 

各地で観光しつつ広島に宿を取った私は、明くる日一番に福岡へ発った。夕刻の集合までに観光を堪能する心づもりであったのだ。されどもあにはからんや、九州第一の都である福岡には大宰府を別とするとさしたる観光名所も無く、しかも私の徘徊した博多駅前はその最たるものだったのである。この事は後に現地の方に聞いたのだが、これはどうもコンパクトシティ計画なるものの弊害らしい。

 

少なくない時間をオフィス街博多に浪費したのち、日暮れ時に集合場所へと向かった。そのまま集合時間まで読書をしていたのだが、集合時間になって周囲を見回すと外山氏と二名の若者が認められた。私もそちらに赴き、通り一遍の挨拶を済ませた。お馴染みの街宣車に乗って、そのまま一週間を過ごすアジトに運ばれて行った。

 

我々団アジトに着くと早速外山氏にアジトを案内され、その後私を含めた参加者三名で自己紹介をした。共産趣味やら何やらをこじらせたという東大の甘木氏と、風変わりなサークルを主宰している京大の・・・先に提示したように既に自身体験記をお書きの様だから書いて仕舞うが、サークルクラッシュ同好会会長のホリィ・セン氏である。確か外山氏の話では福岡の高校生が参加するとかしないとかの話があったが、どうやら立ち消えになったらしい。

 

しばらくして外山氏の友人方が集まって、合宿者の歓迎会が始まった。大日本愛國團體聯合時局對策協議會理事といういかめしい肩書きを持つアイドルオタクの藤村修氏や芸術弾圧機構MAINSTREAM首魁の東野大地氏らが集って来られた。後に同人誌MAINSTREAMを見てその趣向に賛同し、あの場で東野氏に委細質疑しなかったのを後悔したのは後の話。当時の私は緊張半分で襟を正し一知半解ながら外山氏の音楽談義を傾聴していたのだ。零時か一時か、確かそれ位に散会となった記憶がある。

 

翌日より朝九時から夕五時まで、一時間の昼休みを挟んでの読書会が始まった。参加者は先述の両氏と、初日の歓迎会で対面していた垂逸氏である。氏は某国最高学府に見切りをつけて中退したのち外遊、現在は福岡で勤め人という御仁。それに私を含めた四人で、外山氏を囲んでの読書会が爾後一週間続けられた。

 

合宿二日目である読書会初日に読んだのはリウスの「FOR BEGINNERS マルクスAmazon.co.jp: マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3): エドワルド・リウス, 小阪 修平: 本である。漫画風の入門書で簡明にマルクス主義の思想的源泉や歴史的形成過程、そしてその内容が記してある、二百頁にも満たない薄い本だ。切りのいい頁までを外山氏が指定し、全員がそこまでを読了したところで質疑応答を設けて疑義を解消し、時に外山氏の解説を挟んではまた読書に戻るという形で会は進行した。一時間程度、日程の前後する日もあったような気がする。初日はこの本を読了して終了した。

 

アジトには左翼、右翼の文献がそれぞれ本棚一本分ずつあり、余暇の時間には自由に読書できた。これらの本は読書会を行った広間にあり、読書会の途中で本棚から実物を取り出しての文献紹介も一度ならずあった。他には幾許かの漫画や雑誌が廊下に、多量の映画VHSやCDがビデオルームに備えてある。浴室と洗面所、洗濯機もあってこれは勝手に利用できた。他には厨房があり、こちらも自由に利用できた。尤も、私は料理が不得手で殆ど行わなかったのだが。

 

例の大学生二氏と私はアジトに泊まり込み、勤め人の垂逸氏は夜には仕事のためアジトを離れた。初日の夜には外山氏の知り合いの反原発右派Z氏がアジトを訪われ、我々としばしの座談。氏は「関門は九州の生命線」とでも言いかねないような九州パトリオットで、彼が反原発運動に身を投じたのも偏にそのためらしい。その日つまり一三日に反原発右派のデモがあるとは聞いていたが、行き方が分からず私は行かれなかった。外山合宿に来るような変人の意見が何するものぞとは思ったが、頻りに残念がられていたので気の毒であった。ちなみに氏は九州保全のため反原発に投身したとのことだが、九州の原発に事があったらどうするのかちと訊いてみたいところであった。

 

事のついでに申し述べておくと、我々団アジトは非常に地理的には、少なくとも初見者には分かりにくい。最寄駅から徒歩三十分といったところである。付近にコンビニとスーパーがあるらしく、他の面々は買い物や遊びに行ったりと外出を繰り返していたが、地理感覚に乏しい私は遂にそのようなことはなく、迷っては戻り迷っては戻りという具合で合宿を終えた。早く我々団には知名度を上げて頂いて、近隣の人民に訪ねたら九州ファシスト党アジトの場所を教えて貰えるという風になってほしいものである。しかし無意識に混同しがちな我々団と九州ファシスト党の関連が未だによく分からないのだが、一体どういうことなのだろうか。

 

さて、それから二日間は特に変わったことも無く淡々と読書会である。両日で立花隆の「中核VS革マルAmazon.co.jp: 中核VS革マル(上) (講談社文庫): 立花 隆: 本を読んだ。戦後から七十年代までの左翼学生運動史を綴った本で、上下巻の上巻、1970年の海老原君事件で所謂内ゲバの端緒が始まるまでを読んだ。下巻は中核派革マル派内ゲバの過激化を書いただけらしく思想史的価値は今一つとのことだ。この本はノンセクトが手薄な点を除けば、この頃の学生運動を概観するのに適した好著だとは外山氏の言。読了後に時間が余ったので、外山氏の独自研究に基づく、現代社会に潜伏するマルクス主義革命の恐ろしいインボーについての講義を拝聴した。

 

この頃になると合宿参加者の同志諸彦とも少しならず親密となって、ホリィ・セン氏にサークラ研の研究を訊いたり、東大の甘木氏にロープシンの「蒼ざめた馬」を勧められて読んだり、また垂逸氏に来歴の話を仔細尋ねたりした。このような会に来るような参加者は曲者揃いで、読書会に匹敵しうるほどにどれもこれも興味深かった。

 

「中核VS革マル」後半の四日目には来客があった。昨夏の第一回合宿参加者で、西南学院大学アナキズム研究会会長のM氏である。アナキズム研究会について二三伺ったのち、雨宮処凛のドキュメント映画「新しい神様」を見た。周囲の面々からは存外の高評価であったが、私は興を惹くことなく若干舟漕ぎ気味であった。尚、次に見た大川興業の劇「自由自」は素晴らしかった。

 

五日目からは、二日を掛けて笠井潔ユートピアの冒険」Amazon.co.jp: ユートピアの冒険 (知における冒険シリーズ): 笠井 潔: 本を読んだ。ボードリヤールドゥルーズなどのポストモダン思想を援用してマルクス主義を批判する本だったが、まあドゥルーズの解しがたいことよ。何とかこの本を嚥下した後は、やはり余った時間を活用して八十年代以降現在に至るまでの政治運動史を、文化史などの世情を絡めながら外山氏が講義した。「青いムーブメント」という著書のあるくらいでこの辺のことには通暁されており、言うまでも無く面白かった。

 

六日目には以前外山氏の主宰した革命家養成塾「黒色クートベ」に参加したというI氏がアジトを訪った。クートベとはソ連の革命家養成塾だという。この黒色クートベ、五か月間も鄙のアジトに缶詰状態だったというから驚きだ。I氏やホリィ氏が絶賛した阿部共実の「大好きが虫はタダシくんのAmazon.co.jp: 大好きが虫はタダシくんの 阿部共実作品集 少年チャンピオン・コミックス 電子書籍: 阿部共実: 本を読んだが、確かに佳かった。

 

七日目、実質的な最終日には絓秀実の「1968年」Amazon.co.jp: 1968年 (ちくま新書): スガ 秀実: 本を拾い読みした。大部分を飛ばしたため消化不良の感はあったが、日本におけるポストモダン運動の先駆として肯定的に位置づけられがちな華青闘告発が内ゲバに拍車を掛けることにもなったという指摘など、知識のあるものだけが微苦笑を禁じ得ないような場面が散見されて合宿の成果を密かに確認できて愉快であった。絓氏流の文学的修辞についても外山氏の独自研究によって快刀乱麻を断つが如くに疑問氷解、愉快も愉快の瞬間である。外山氏にサインを頂いて悦に入ったのもこの日だった。

 

合宿の日程は七日目夜に交流会、八日目は自動解散ということで実質的には七日目が最後の日である。ネット選挙を解禁した政治活動家の本山貴春氏、我々団の眞壁良輔氏らが七日目の交流会に見えた。藤村修氏と神学論争を行って中島みゆき神への理解を深めたり、ホリィ氏・垂逸氏によるサブカル講義を受けたり、真壁氏に演劇のレクチャーを受けたりした。帰路、最寄駅までは地元の垂逸氏に案内して頂く。途上にて氏と対話したが、話すだけで活力を分けて貰えるような人であった。心残りと言えば、外山氏が早くお休みになって最後に挨拶できなかったことくらいであろうか。毎日我々の就寝するような深夜までキーボードを叩く音が響いていたくらいだからお疲れなのも仕方なかろう。ともあれ、この合宿を主宰された外山氏や、刺激を受けること少なくなかった参加者諸氏、それに来客の方々に感謝するのみである。

 

帰りに平日昼間からビールクズしたり岡崎武志さんに似顔絵を描いて頂いたりしたが、それはまた別の話。同志諸兄に連絡せねばならないので(実はメールの文面が思いつかないのでブログに逃避したのである)、この辺で擱筆とする。

私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎(中井繁一)

これから暫らく、このブログでは富ノ澤麟太郎の関連資料、主に周辺人物による回想などを公開していこうかと思っています。

 

今回は大正十四年五月『文芸時代』誌、富ノ澤追悼企画の一つとして掲載された中井繁一の「私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎」を紹介します。事実認識に幾らかの錯誤が見られますが、それも含めて原資料として見て頂ければと思います。

 

さていきなり本文と行きたいところですが、その前に中井繁一という人物について多少の説明を認めようかと思います。

中井は明治二十五年七月、熊野の生まれで地元の郵便局に勤め、社会主義を信条としつつローマ字の詩を作っていたようで、大正五年には日本初のローマ字詩集「Kumano-kaidoo」を出版しました。これを富ノ澤が手に取ったことで、ふたりの関係は始まります。

のち上京し当時の文学青年らと交際するうちに彼等の窮状を知り、大正十二年には出版社を立ち上げました。どうやら経営は多難だったようです。富ノ澤の没後の大正十五年には詩集『ゼリビンズの函』を上梓。この表題作についても、下の文章で言及されています。この詩集の版元である恵風館というのが、恐らくは彼の書店の名前でしょう。

その後のことは詳らかではありませんが、昭和二十九年六月に無くなり、晩年は失明に近い状態で詩作を続けていたとのこと。中井の娘照子は、角川源義の妻となりました。

 

さて聊か前置きが長くなりましたが、下がその中井の富ノ澤追悼文です。

 

私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎

 三月二日加藤四郎氏から「富ノ澤が死んだと読売の消息に出て居る」と聞かされた。私は読売を取つて居なかつたので直ぐ近所の呼売りの処へ買ひにやつたが既に売切れて居た。死んだのなら佐藤氏から何か通知がある筈だのに電報も葉書も来て居なかつた。私はそれは何かの間違ひであつてくれゝばよいがと祈りながら其夜佐藤氏へ問合せの手紙を書いた。翌日加藤が読売を持つて来て見せてくれた。越えて六日佐藤氏から悲報と表に記された通知を受取つた。十日の夜、私の留守に富ノ澤のお母さんが訪ねて来てくれたが、その翌日私はお母さんに会つて具さに彼の死の前後を聞いた。私の胸は暗く塞されてゆくのを覚えた。私は今身の置場も知らぬ位お母さんに対して気の毒な立場に居る。故人の遺骨は結城氏等の尽力によつて仙台の彼一家の墓地に埋葬されることになつて今この私の机に安置されてある。私は故人を前に置いて彼の思ひ出を綴る、これも何かの深い因縁であらう。

 私は彼の死については種々云ひたい事があるが今暫く沈黙する。只一つ言つて置きたいのは、彼を最初佐藤氏に紹介したのは私であつたことゝ、彼をその佐藤氏の家で死なせた事を、同人の誰よりも彼の一人の老母や、彼が特異の文芸に期待してくれて居た人々の前に責任を感じて居ることである。

 私が彼と相識つたのは実に十年前、大正五年に私の小さなローマ字書き詩集が出た時彼は仙台の本屋で買つて読んでくれたのである。そして時々手紙を呉れたりした、私はまだ紀州五郷の小さな郵便局に居た。越えて六年私は上京して巣鴨の鳴海氏の二階に居た。彼も郷里仙台の中学を終つて上京した。二人は鳴海氏の二階で始めて顔を会はせた。初対面の彼は手紙によつて得た印象とは全く別人と思はれる程温和な、沈黙家であつた。彼は或日私を浅草の活動写真に誘つた。私は彼に連れられて始めて東京の活動を見た。小屋はどこであつたか見て居ること十五分と経たなかつたのだ、彼は頓狂な声で『中井さんやられました――』彼の示すのは左の袂であつた。見ると、よくも斯う迄落付いて仕事が出来るものだと思はしめる程巧妙に、彼の単袂が二寸余り縫糸を丁寧に抜きとられ、その穴から白いハンカチの包みを解いて彼の銭入が掏り去られたのである。彼はひどく悄げて居た。私は彼を促して外へ出た。彼は帰りには私と一しよに飯でも食ふつもりだつたのに飛んだ失策をやったのでひどく私に恐縮して居た。幸私の貧弱な袂は安全だつたので二人はラムネを飲んで電車で別れた。

 其後彼は山咲町の履物屋の二階に母と二人で住つて居た。彼はその頃煙草を喫ひ初めたのである。其頃私は鳴海氏の処から原町の材木屋の奥に妻子を伴れて籠城して自分の古本を浅草公園や銀座の夜の街道に売つて食つて居たが昼に売れた金は晩には飯になつて居る始末で本を仕入れる処には手が届かず、終には売残りを一纏めにして本郷の古本屋へ叩き売つて仕舞つて家に帰つて来ると富澤氏が訪ねて来て自分の小遣を置いて行つてくれた、僅かな金ではあつたが私達はおからのパンを造つて食つて居た最中であるから非常に嬉しかつた。

 其後彼は私の処へ古い法帖を四五冊持つて来てこれを売つて小遣銭を造らうといふ、経験者である私は彼を連れて銀座の夜店へ出た、何でも少し寒い時であつた。場所も悪く一冊も売れなかつた。二人は店を了つて帰りかけるとやはり夜店の常連の古本屋の前でお客さんが習字手本を捜して居た、幸その古本屋には習字が無かつた、私はその古本屋の親爺に会釈して「法帖でよければこゝに持つて居ます」と二人の抱えてゐるのを見せた、客はその中から一番安そうな文徴明か何かを五十銭で買つてくれた。二人はさつさと日比谷の方へ歩いて蕎麦屋に入つて盛を一つづゝ食つた。決局その法帖は蕎麦屋と電車賃に消えて大笑をした。私はその頃詩を書いて居た、ゼリビンズの箱といふのが書けた、彼は喜んでくれた、私はそれを春陽堂の中央文学に持込んだ、それが出るには出たが原稿料は一箱の封筒であつたから米代にはならなかつた。私は転々して府下東淵江の艶紙工場に入つた。富ノ澤はそこへも遊びに来てくれた。泊つて行く事もあつた。或日私はいつものやうに工場の二階で染料にまみれて作業をつゞけてゐたが一寸窓から外を見ると今しも辻を曲つてヒヨコヒヨコやつて来る彼の姿を見た、彼は縁の広いソフトのパナマ帽を冠つて居たがすぐ私を見付けた、私は手招きした、彼は門をくゞつて小走りに階下へ消えた、しかし彼の姿は何時迄経つても二階に現はれなかつた、私は不思議に思つて下に降りて行つたがそこにも彼は居なかつた、そのかはり工場主の息子である独逸帰りの技師が立つて居て、「中井君、この頃知らない男が工場を覗きに来るから気をつけて呉れ給へ、今も黙つて変な男が二階に上らうとするから怒鳴つてやつた」といふ、これ正に我が富ノ澤がふい打ちを喰つて逃げた謂所であつて、待つても上つて来ぬ訳だつた、外へ出て見ると、河辺の土手に上つて苦い顔をして立つて居る、私は「すまないすまない」と詫を言つた。彼は私の退けるまで私の子供を対手に中川の流れを往来する帆舟を眺め待つて呉れた。其夜彼は同人雑誌を出す話を聞かせた。私も中間に入れて呉れるといふ、その雑誌が即ち『塔』であつた。十一年五月である彼は此の『塔』に「セレナアド」の短篇を発表して一時既成文壇から問題になつた事がある。その前私はたつた一度昇中館の二階に彼を尋ねて泊つたことがある。彼はよく活動の話をした。何でも独逸の映画で「カリガリ博士の長持」とか言ふのは谷崎も参つたといふ程面白いものだとか云ふ話であつた、――後には一度私を神田の新声館につれて行つて見せてくれた――私は疲れて居たので彼より先に彼のやに臭い寝床にもぐり込んでしまつた。ふと目を醒すと彼はまだ起きて何か書いて居る。部屋の中は煙草の烟で朦朧として居る、彼は徹夜して私に寝床を自由に休まして呉れたのである。夜が明けて戸を開けると彼は自分の舌を出して、『中井さん、これ見な』彼の舌には真黒にバツトのやにが付いて居る、歯はもとより外まで真黒なのであつた。彼はそれ程煙草が好きであつたのである。彼は其頃もう学校は止めて居た、私は震災の年の五月例の工場を退いてこゝに印刷の店を出したのである。久し振で佐藤氏を信濃町の宿に訪ねて外ながら彼の作品について尋ねて見た、佐藤氏は云つた、『僕の処へ来る連中には大底三度目位に原稿の売口の相談を掛けられるが独り我が富ノ澤は君に紹介されてから足かけ五年になるけれど未だ只一回も原稿を金に代へてくれと頼まれたことがない、黙つて書いて居るのだ、僕はかく謙譲な作家を嬉しくも頼母しくも思つて居る。しかし彼が何も言はなくても機を見て文壇に送ることにしよう』と。私は佐藤氏を信頼して其後、富ノ澤は物質的にもかなり困つて居たけれど二度とそのことを言はなかつたが彼の『流星』が改造に出る迄にはそれからも余程時間があつたのである。

 今年の十一月であつたか帰省中の佐藤氏から来い来いといはれて居るから行つて来るといつて、私の処へ寄つた、私は近所のカフエーで紅茶を飲んで別れた、思へば其時、彼は何だか今度の旅を淋しがつて居た。それが私と永遠の別れであつた。

 暮れの三十日で夜であつたと覚える、私は前日から頭痛がして、熱もあつたが無理に仕事の片付けをやつて居た、店前へ一人の若い男が訪ねて来て、紀州の佐藤さんの処へ行く道順を教へてくれといふ、聞けば富ノ澤が病気でお母さんが行かれるのだといふ、佐藤氏からの一通の書面を私に見せてくれた、それには大した心配には及ばぬが来て見てやつてくれ、病気は東京で流行る熱病のやうであるがこちらは医者でもあるし手当は充分してゐるから決して心配しないでくれ、と書いてあつた。私はお母さんに随いて行つて上げたく思つたが、自分も何時寝るかも知れない風気がある為に、且つは年暮の店を控えて居ることゝて道順を書いて渡した。私は果然、元旦の朝一寸起きたまゝ寝込んでしまつて十七日まで熱が続いた、私はうとろうとろと熱に浮かされながらも旅先で病んでゐる富ノ澤を思つた。其後筆がとれるやうになつて佐藤氏にも、富ノ澤にも手紙を出したが、一度も返事がなかつた。後で聞けば其日、またお母さんの処へ佐藤氏から「病よい来るに及ばぬ、来るなら文見て来い」という電報があつたので、お母さんは独旅でもあるし心配しながらも見合はせて居たが正月帰省中の佐藤氏の令弟が上京しての話に、だいぶ衰弱して居るから行つてやつた方がよいといはれて、驚いてお母さんはあの遠い旅路を汽車や汽船に揺られながら遥々看護に赴かれた。けれどもお母さんが行つた時はあまりにも衰弱してしまつて、これが我子かと疑はれる程変りはてた姿になつて居た。そして富ノ澤は。

『お母さん……僕もうこんなになつて終まつたんだよ。』

 泣いたといふのだ、お母さんは彼を励まして、「お母さんが看護に来た上はきつとよくして東京へ連れて帰るのだからおまへもね、そのつもりで気をしつかりもつてくれ」と云はれた。彼は母の顔を見てから、母の熱心な看護を得てから少しは元気付いたものゝ彼は旧の健康に帰るにはあまりに先に歩み過ぎて居た事に気が付いたのか、一日、母の制止も聞かず覚束ない手に鋏をとつて自分の髪を切つて、これを結城氏と横光氏と私とに形見に届けて来れと母に渡された、その遺髪は今私等三人の手元に届いて居る。

 二月二十四日彼の臨終には母の他に佐藤春夫氏と改造社の宮城氏も居てくれた。彼は二氏に、残して行く母の身の上を呉々も頼んだ上、自分の万歳を唱へてくれと自ら万歳を唱へた。そして自分の息の通つて居る間、『先生、お母さんを頼みます、お母さんを頼みます』と願ひつゞけて行つたと。其声は紀州海岸の小さな寒村の夜の空気を如何に悲壮に彩つたか。吁々彼は二十七の盛りを、私の生国紀州に於て斯くして散らせてしまつた。

通販委託のこと

もはや今更の感が否みがたいのですが、「倉田啓明文集」「富ノ澤麟太郎文集」の委託先を記しておきます。

 

みじんこ洞(http://mijincodou.jimdo.com/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%9F-%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%BF%E6%B4%9E/)様

 

古書肆マルドロール(http://maldoror.web.fc2.com/)様

 

ご所望の向きは、上記までご連絡されたく思います。

12/19 追記

現在、盛林堂書房http://seirindousyobou.cart.fc2.com/?ca=all)様にてもお取扱い頂いております。

富ノ澤麟太郎の事

富ノ澤については資料が多くはありませんので、分かるところは分かる、分からないところは分からないという一応の区別があります。ですから今後目覚ましい発見でもない限りこれといった進展も無く、そういった意味では詰まらない作家だともいえましょうが、ここで覚え書き代わりに取り敢えずネット上の情報の整理をしておきたいと思います。私の存じ上げぬところの文献がありましたら、ぜひご教示ください。

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000282/card1714.html

富ノ澤の代表作「あめんちあ」、これは青空文庫で読むことが出来ます。

 

http://747seconds.nobody.jp/index.html

略歴、文献紹介のほか「一世」を読むことが出来ます。なお以前にも指摘しましたが、「一世」は『文芸時代』ではなく『文芸日本』の掲載です。確か沙羅書店版「富ノ澤麟太郎集」の時点から既に誤記があったように記憶しておりますが、ここでも再度その旨記しておきます。

 

http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~itasaka/hato/serenade.html

よくわからないのですが、検索していたところ見つかりました。「セレナアド」があります。

 

http://sichsorne.hatenablog.com/entry/2014/05/24/222300

http://sichsorne.hatenablog.com/entry/2014/05/24/223849

当ブログで手前味噌のこと御免被りますが、富ノ澤が『文章往来』に発表した短文二つです。二月の「ある日記」が富ノ澤麟太郎の筆名で発表されているのに対し翌三月の「雑記帳から」が本名富澤麟太郎名義であること、富ノ澤が病気で生死の境を彷徨っており尚且つ東京から遠く旅先にあった時期に発表されたこと、等々疑問の少なくないものですが、なかなかに興味深い文献です。なお「ある日記」の登場人物詩人N氏とは中井繁一、先生とは佐藤春夫のことを指すものと見て間違いないでしょう。ちなみにこの文献はカトウジンさんに教えていただいたものです。カトウさんありがとうございます。

富澤麟太郎「雑記帳から」

雑記帳から

富澤麟太郎

 

剃刀のやうな講話は耳からでなく目から入れる

    ○

木が花を咲かすやうな心持で芸術をやる。

    ○

恋愛は生きるためにやる

その他のもの(労働)は食ふためにやる

    ○

彼はすつぽりと心をあけて

さて愛すといはれた時

その瞬間からその女を嫌つて了つた。

    ○

牛肉を食ふたが故にその者は牛にならないと同じやうに作品もさうさるべきか大切。

病者はたべない。

 

いやたべても缼陥のある者は吐き出す。

 

『文章往来』大正十四年三月号掲載

富ノ澤麟太郎「ある日記」

ある日記

富ノ澤麟太郎

 

 詩人N氏(N氏との関係は改めて書く)の多大なる力で先生に紹介してもらうことにした。

 大正八年二月二十日。よく晴れた日だつた。動坂の先生のお宅に行つたのは午後二時頃だつた。

 玄関でN氏が喚いた声は二階にひびいたらしかつた。やつと返事があつたから、下には誰もゐなかつた。細面の毛髪のもしやもしやした一人の老人が黄色い絹の褞袍をきて玄関口を開けた。外を覗いた顔、いやその眼と眉との間に本当にはつきりした憂鬱な暗い影がこつぴりついてゐる顔が二人を見た。

 N氏が来訪の訳を話すと

「ああ」といつた。二人で二階へ上つた。

午后の太陽がポカポカと部屋を七分通りまで温めてゐた。

座布団が敷いてあつた。

二人が座ると、その老人は初めて口を開いて

「今些つと書き終るまで待つてくれ……」といつた。己は始めて感んづいた。この人が先生であつたかと。

己が初めて或る雑誌で先生の写真をみたあの貴公子然とした、面持ちで麥藁帽を被つてゐるのとは全然異つてゐたのでさう思つたのも当然なことだらう。

初対面の挨拶をした。

フランスの「人間悲劇」を訳してゐるんだといつた。そして一寸二三枚読んでくれといふので云はれるまゝに己はそれを読んだ。

「わかりますか」と問はれた。

「いえよく分ります」と答へたものゝ己は初めてああした風の最も大胆な寧ろ自分自身の創作のやうな訳本を見たのであつた。

 代名詞が非常に多かつた。

 そして云はれた。

「このやうに幾つもいくつも沢山の形容詞を重ねるとかういふやうな宗教じみたものは荘厳になる」と、尤もだと思つた。

 その時先生風邪に襲はれてゐたのだつた。声が重かつた。

「君は今迄誰の物(外国物)を多く読んだ?」

 己は総べての人を読んだことを云つて、深く残つたのは、ワイルド、ボードレエル、ウワーゾース、あたりをいつた。

「ブレークの詩を読みませんでしたか」

「いゝえ、やりませんでした」

「あれがいゝんだがなあ」

 それからは注意や雑談でめちやくちやに時を過した。

 その中に奥様が帰られた。

 矢張り挨拶があつた。

 先生は非常に座談に巧みな人として印象された。それはいくらきいてゐてもうんざりさせられないからだ。

 己の名刺をあげると、あの神経質な眼を見開いて、

「これはいゝ名前だ。麟太郎はいゝ」と云つてゐられた。

 帰へる時わざわざ玄関口まで送つて下さることなどはひどく恐縮に思つた。

 晴々した気分になれた。それは何とも知れない嬉しさが心に充ち充ちて来たからである。元来己は意志が頗る弱い、そして因循姑息といつた風な人間だ。だから情もろくて馬鹿涙といふものを知つてゐるのだ。

さうしたものに引かされまいとしても不知不識のうちにさうした情の水のなかに浸されてゐるのだ。そんな訳でその反映ともして己といふ自身もさうしたものを受けねばならぬとは考へてゐないが、兎角さうしたやうなものに似通よつた流れのうちに浸されてみたいと思はぬでもない。だから己が一度人から抱れたならその固く結んだきづなから離れようとはしないのだが強いて自分からさうしたやうに結んで抱いてくれなどとは願ひたくない。

一方己にも人を抱かうとする心は十分にあるがそれを表現するのには自分の意志が余りに弱過ぎる。それ程の弱い人間だ。

 

こんな意味で己は先生に永久にその大きな美しい夢の心のなかに抱かれてゐたいと思つた。己にはさうやつてもらうより仕方はないと考へたからである。(八年九月卅日)

 

『文章往来』大正十四年二月号掲載

オンライン倉田啓明資料覚書

ネット検索等を使って、オンラインで閲覧可能な啓明文献のリストを作ってみました。私の知らないものもありましょうので、そういう場合はコメントなり何なりでご教示頂ければ随時追加致します。

 

国会図書館近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/

言わずと知れた近デジですが、倉田啓明で検索しても何も出てきません。偽作事件で啓明の悪名が高まったためか一時期彼は本名倉田潔の名前で本を出版していますが、ここで見られるのはその頃の著書四冊です。啓明ではなく「倉田潔」で検索しましょう。彼の代名詞とも言えよう監獄ルポ「地獄へ堕ちし人々」や彼が影響を受けたワイルドなどの翻訳童話二篇、創作童話一篇が見られます。

 

亀鳴屋(http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/shinkan/shinkan02.html

『稚兒殺し 倉田啓明譎作集』の版元。残念ながら品切れです。

 

古本夜話(http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20100317/1268837992

桜井均の回想録『奈落の作者』を下地に啓明のことが書いてある記事です。

 

わが忘れなば(http://wagawasurenaba.hatenablog.com/entry/2012/11/10/134124

http://wagawasurenaba.hatenablog.com/entry/2012/12/09/121901

松本克平『私の古本大学』や西村賢太「異端者の悲しみ」などを下敷きに、啓明のことが紹介されています。

 

稀覯本の世界」掲示板より(http://sichsorne.hatenablog.com/entry/2014/05/11/040201

古書サイト「稀覯本の世界」の掲示板での啓明論議を、管理人様のご許可を頂いて当ブログに編集したものです。

 

神保町系オタオタ日記(http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20070612/p1http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20070821/p1)・・・5/11追加、id:fromAmbertoZen氏よりのご教示。(コメント欄参照)

桜井本や坪内と啓明の関係についてなど。