富ノ澤麟太郎「ある日記」

ある日記

富ノ澤麟太郎

 

 詩人N氏(N氏との関係は改めて書く)の多大なる力で先生に紹介してもらうことにした。

 大正八年二月二十日。よく晴れた日だつた。動坂の先生のお宅に行つたのは午後二時頃だつた。

 玄関でN氏が喚いた声は二階にひびいたらしかつた。やつと返事があつたから、下には誰もゐなかつた。細面の毛髪のもしやもしやした一人の老人が黄色い絹の褞袍をきて玄関口を開けた。外を覗いた顔、いやその眼と眉との間に本当にはつきりした憂鬱な暗い影がこつぴりついてゐる顔が二人を見た。

 N氏が来訪の訳を話すと

「ああ」といつた。二人で二階へ上つた。

午后の太陽がポカポカと部屋を七分通りまで温めてゐた。

座布団が敷いてあつた。

二人が座ると、その老人は初めて口を開いて

「今些つと書き終るまで待つてくれ……」といつた。己は始めて感んづいた。この人が先生であつたかと。

己が初めて或る雑誌で先生の写真をみたあの貴公子然とした、面持ちで麥藁帽を被つてゐるのとは全然異つてゐたのでさう思つたのも当然なことだらう。

初対面の挨拶をした。

フランスの「人間悲劇」を訳してゐるんだといつた。そして一寸二三枚読んでくれといふので云はれるまゝに己はそれを読んだ。

「わかりますか」と問はれた。

「いえよく分ります」と答へたものゝ己は初めてああした風の最も大胆な寧ろ自分自身の創作のやうな訳本を見たのであつた。

 代名詞が非常に多かつた。

 そして云はれた。

「このやうに幾つもいくつも沢山の形容詞を重ねるとかういふやうな宗教じみたものは荘厳になる」と、尤もだと思つた。

 その時先生風邪に襲はれてゐたのだつた。声が重かつた。

「君は今迄誰の物(外国物)を多く読んだ?」

 己は総べての人を読んだことを云つて、深く残つたのは、ワイルド、ボードレエル、ウワーゾース、あたりをいつた。

「ブレークの詩を読みませんでしたか」

「いゝえ、やりませんでした」

「あれがいゝんだがなあ」

 それからは注意や雑談でめちやくちやに時を過した。

 その中に奥様が帰られた。

 矢張り挨拶があつた。

 先生は非常に座談に巧みな人として印象された。それはいくらきいてゐてもうんざりさせられないからだ。

 己の名刺をあげると、あの神経質な眼を見開いて、

「これはいゝ名前だ。麟太郎はいゝ」と云つてゐられた。

 帰へる時わざわざ玄関口まで送つて下さることなどはひどく恐縮に思つた。

 晴々した気分になれた。それは何とも知れない嬉しさが心に充ち充ちて来たからである。元来己は意志が頗る弱い、そして因循姑息といつた風な人間だ。だから情もろくて馬鹿涙といふものを知つてゐるのだ。

さうしたものに引かされまいとしても不知不識のうちにさうした情の水のなかに浸されてゐるのだ。そんな訳でその反映ともして己といふ自身もさうしたものを受けねばならぬとは考へてゐないが、兎角さうしたやうなものに似通よつた流れのうちに浸されてみたいと思はぬでもない。だから己が一度人から抱れたならその固く結んだきづなから離れようとはしないのだが強いて自分からさうしたやうに結んで抱いてくれなどとは願ひたくない。

一方己にも人を抱かうとする心は十分にあるがそれを表現するのには自分の意志が余りに弱過ぎる。それ程の弱い人間だ。

 

こんな意味で己は先生に永久にその大きな美しい夢の心のなかに抱かれてゐたいと思つた。己にはさうやつてもらうより仕方はないと考へたからである。(八年九月卅日)

 

『文章往来』大正十四年二月号掲載