私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎(中井繁一)

これから暫らく、このブログでは富ノ澤麟太郎の関連資料、主に周辺人物による回想などを公開していこうかと思っています。

 

今回は大正十四年五月『文芸時代』誌、富ノ澤追悼企画の一つとして掲載された中井繁一の「私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎」を紹介します。事実認識に幾らかの錯誤が見られますが、それも含めて原資料として見て頂ければと思います。

 

さていきなり本文と行きたいところですが、その前に中井繁一という人物について多少の説明を認めようかと思います。

中井は明治二十五年七月、熊野の生まれで地元の郵便局に勤め、社会主義を信条としつつローマ字の詩を作っていたようで、大正五年には日本初のローマ字詩集「Kumano-kaidoo」を出版しました。これを富ノ澤が手に取ったことで、ふたりの関係は始まります。

のち上京し当時の文学青年らと交際するうちに彼等の窮状を知り、大正十二年には出版社を立ち上げました。どうやら経営は多難だったようです。富ノ澤の没後の大正十五年には詩集『ゼリビンズの函』を上梓。この表題作についても、下の文章で言及されています。この詩集の版元である恵風館というのが、恐らくは彼の書店の名前でしょう。

その後のことは詳らかではありませんが、昭和二十九年六月に無くなり、晩年は失明に近い状態で詩作を続けていたとのこと。中井の娘照子は、角川源義の妻となりました。

 

さて聊か前置きが長くなりましたが、下がその中井の富ノ澤追悼文です。

 

私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎

 三月二日加藤四郎氏から「富ノ澤が死んだと読売の消息に出て居る」と聞かされた。私は読売を取つて居なかつたので直ぐ近所の呼売りの処へ買ひにやつたが既に売切れて居た。死んだのなら佐藤氏から何か通知がある筈だのに電報も葉書も来て居なかつた。私はそれは何かの間違ひであつてくれゝばよいがと祈りながら其夜佐藤氏へ問合せの手紙を書いた。翌日加藤が読売を持つて来て見せてくれた。越えて六日佐藤氏から悲報と表に記された通知を受取つた。十日の夜、私の留守に富ノ澤のお母さんが訪ねて来てくれたが、その翌日私はお母さんに会つて具さに彼の死の前後を聞いた。私の胸は暗く塞されてゆくのを覚えた。私は今身の置場も知らぬ位お母さんに対して気の毒な立場に居る。故人の遺骨は結城氏等の尽力によつて仙台の彼一家の墓地に埋葬されることになつて今この私の机に安置されてある。私は故人を前に置いて彼の思ひ出を綴る、これも何かの深い因縁であらう。

 私は彼の死については種々云ひたい事があるが今暫く沈黙する。只一つ言つて置きたいのは、彼を最初佐藤氏に紹介したのは私であつたことゝ、彼をその佐藤氏の家で死なせた事を、同人の誰よりも彼の一人の老母や、彼が特異の文芸に期待してくれて居た人々の前に責任を感じて居ることである。

 私が彼と相識つたのは実に十年前、大正五年に私の小さなローマ字書き詩集が出た時彼は仙台の本屋で買つて読んでくれたのである。そして時々手紙を呉れたりした、私はまだ紀州五郷の小さな郵便局に居た。越えて六年私は上京して巣鴨の鳴海氏の二階に居た。彼も郷里仙台の中学を終つて上京した。二人は鳴海氏の二階で始めて顔を会はせた。初対面の彼は手紙によつて得た印象とは全く別人と思はれる程温和な、沈黙家であつた。彼は或日私を浅草の活動写真に誘つた。私は彼に連れられて始めて東京の活動を見た。小屋はどこであつたか見て居ること十五分と経たなかつたのだ、彼は頓狂な声で『中井さんやられました――』彼の示すのは左の袂であつた。見ると、よくも斯う迄落付いて仕事が出来るものだと思はしめる程巧妙に、彼の単袂が二寸余り縫糸を丁寧に抜きとられ、その穴から白いハンカチの包みを解いて彼の銭入が掏り去られたのである。彼はひどく悄げて居た。私は彼を促して外へ出た。彼は帰りには私と一しよに飯でも食ふつもりだつたのに飛んだ失策をやったのでひどく私に恐縮して居た。幸私の貧弱な袂は安全だつたので二人はラムネを飲んで電車で別れた。

 其後彼は山咲町の履物屋の二階に母と二人で住つて居た。彼はその頃煙草を喫ひ初めたのである。其頃私は鳴海氏の処から原町の材木屋の奥に妻子を伴れて籠城して自分の古本を浅草公園や銀座の夜の街道に売つて食つて居たが昼に売れた金は晩には飯になつて居る始末で本を仕入れる処には手が届かず、終には売残りを一纏めにして本郷の古本屋へ叩き売つて仕舞つて家に帰つて来ると富澤氏が訪ねて来て自分の小遣を置いて行つてくれた、僅かな金ではあつたが私達はおからのパンを造つて食つて居た最中であるから非常に嬉しかつた。

 其後彼は私の処へ古い法帖を四五冊持つて来てこれを売つて小遣銭を造らうといふ、経験者である私は彼を連れて銀座の夜店へ出た、何でも少し寒い時であつた。場所も悪く一冊も売れなかつた。二人は店を了つて帰りかけるとやはり夜店の常連の古本屋の前でお客さんが習字手本を捜して居た、幸その古本屋には習字が無かつた、私はその古本屋の親爺に会釈して「法帖でよければこゝに持つて居ます」と二人の抱えてゐるのを見せた、客はその中から一番安そうな文徴明か何かを五十銭で買つてくれた。二人はさつさと日比谷の方へ歩いて蕎麦屋に入つて盛を一つづゝ食つた。決局その法帖は蕎麦屋と電車賃に消えて大笑をした。私はその頃詩を書いて居た、ゼリビンズの箱といふのが書けた、彼は喜んでくれた、私はそれを春陽堂の中央文学に持込んだ、それが出るには出たが原稿料は一箱の封筒であつたから米代にはならなかつた。私は転々して府下東淵江の艶紙工場に入つた。富ノ澤はそこへも遊びに来てくれた。泊つて行く事もあつた。或日私はいつものやうに工場の二階で染料にまみれて作業をつゞけてゐたが一寸窓から外を見ると今しも辻を曲つてヒヨコヒヨコやつて来る彼の姿を見た、彼は縁の広いソフトのパナマ帽を冠つて居たがすぐ私を見付けた、私は手招きした、彼は門をくゞつて小走りに階下へ消えた、しかし彼の姿は何時迄経つても二階に現はれなかつた、私は不思議に思つて下に降りて行つたがそこにも彼は居なかつた、そのかはり工場主の息子である独逸帰りの技師が立つて居て、「中井君、この頃知らない男が工場を覗きに来るから気をつけて呉れ給へ、今も黙つて変な男が二階に上らうとするから怒鳴つてやつた」といふ、これ正に我が富ノ澤がふい打ちを喰つて逃げた謂所であつて、待つても上つて来ぬ訳だつた、外へ出て見ると、河辺の土手に上つて苦い顔をして立つて居る、私は「すまないすまない」と詫を言つた。彼は私の退けるまで私の子供を対手に中川の流れを往来する帆舟を眺め待つて呉れた。其夜彼は同人雑誌を出す話を聞かせた。私も中間に入れて呉れるといふ、その雑誌が即ち『塔』であつた。十一年五月である彼は此の『塔』に「セレナアド」の短篇を発表して一時既成文壇から問題になつた事がある。その前私はたつた一度昇中館の二階に彼を尋ねて泊つたことがある。彼はよく活動の話をした。何でも独逸の映画で「カリガリ博士の長持」とか言ふのは谷崎も参つたといふ程面白いものだとか云ふ話であつた、――後には一度私を神田の新声館につれて行つて見せてくれた――私は疲れて居たので彼より先に彼のやに臭い寝床にもぐり込んでしまつた。ふと目を醒すと彼はまだ起きて何か書いて居る。部屋の中は煙草の烟で朦朧として居る、彼は徹夜して私に寝床を自由に休まして呉れたのである。夜が明けて戸を開けると彼は自分の舌を出して、『中井さん、これ見な』彼の舌には真黒にバツトのやにが付いて居る、歯はもとより外まで真黒なのであつた。彼はそれ程煙草が好きであつたのである。彼は其頃もう学校は止めて居た、私は震災の年の五月例の工場を退いてこゝに印刷の店を出したのである。久し振で佐藤氏を信濃町の宿に訪ねて外ながら彼の作品について尋ねて見た、佐藤氏は云つた、『僕の処へ来る連中には大底三度目位に原稿の売口の相談を掛けられるが独り我が富ノ澤は君に紹介されてから足かけ五年になるけれど未だ只一回も原稿を金に代へてくれと頼まれたことがない、黙つて書いて居るのだ、僕はかく謙譲な作家を嬉しくも頼母しくも思つて居る。しかし彼が何も言はなくても機を見て文壇に送ることにしよう』と。私は佐藤氏を信頼して其後、富ノ澤は物質的にもかなり困つて居たけれど二度とそのことを言はなかつたが彼の『流星』が改造に出る迄にはそれからも余程時間があつたのである。

 今年の十一月であつたか帰省中の佐藤氏から来い来いといはれて居るから行つて来るといつて、私の処へ寄つた、私は近所のカフエーで紅茶を飲んで別れた、思へば其時、彼は何だか今度の旅を淋しがつて居た。それが私と永遠の別れであつた。

 暮れの三十日で夜であつたと覚える、私は前日から頭痛がして、熱もあつたが無理に仕事の片付けをやつて居た、店前へ一人の若い男が訪ねて来て、紀州の佐藤さんの処へ行く道順を教へてくれといふ、聞けば富ノ澤が病気でお母さんが行かれるのだといふ、佐藤氏からの一通の書面を私に見せてくれた、それには大した心配には及ばぬが来て見てやつてくれ、病気は東京で流行る熱病のやうであるがこちらは医者でもあるし手当は充分してゐるから決して心配しないでくれ、と書いてあつた。私はお母さんに随いて行つて上げたく思つたが、自分も何時寝るかも知れない風気がある為に、且つは年暮の店を控えて居ることゝて道順を書いて渡した。私は果然、元旦の朝一寸起きたまゝ寝込んでしまつて十七日まで熱が続いた、私はうとろうとろと熱に浮かされながらも旅先で病んでゐる富ノ澤を思つた。其後筆がとれるやうになつて佐藤氏にも、富ノ澤にも手紙を出したが、一度も返事がなかつた。後で聞けば其日、またお母さんの処へ佐藤氏から「病よい来るに及ばぬ、来るなら文見て来い」という電報があつたので、お母さんは独旅でもあるし心配しながらも見合はせて居たが正月帰省中の佐藤氏の令弟が上京しての話に、だいぶ衰弱して居るから行つてやつた方がよいといはれて、驚いてお母さんはあの遠い旅路を汽車や汽船に揺られながら遥々看護に赴かれた。けれどもお母さんが行つた時はあまりにも衰弱してしまつて、これが我子かと疑はれる程変りはてた姿になつて居た。そして富ノ澤は。

『お母さん……僕もうこんなになつて終まつたんだよ。』

 泣いたといふのだ、お母さんは彼を励まして、「お母さんが看護に来た上はきつとよくして東京へ連れて帰るのだからおまへもね、そのつもりで気をしつかりもつてくれ」と云はれた。彼は母の顔を見てから、母の熱心な看護を得てから少しは元気付いたものゝ彼は旧の健康に帰るにはあまりに先に歩み過ぎて居た事に気が付いたのか、一日、母の制止も聞かず覚束ない手に鋏をとつて自分の髪を切つて、これを結城氏と横光氏と私とに形見に届けて来れと母に渡された、その遺髪は今私等三人の手元に届いて居る。

 二月二十四日彼の臨終には母の他に佐藤春夫氏と改造社の宮城氏も居てくれた。彼は二氏に、残して行く母の身の上を呉々も頼んだ上、自分の万歳を唱へてくれと自ら万歳を唱へた。そして自分の息の通つて居る間、『先生、お母さんを頼みます、お母さんを頼みます』と願ひつゞけて行つたと。其声は紀州海岸の小さな寒村の夜の空気を如何に悲壮に彩つたか。吁々彼は二十七の盛りを、私の生国紀州に於て斯くして散らせてしまつた。